私の名前は、「」と書いて「せいこ」と読む。
簡単な文字の組み合わせなのに、つくりの下の部分が「月」でなく、「円」であるせいか、読める人は少ない。


「せいこ」という響きの名前は、父が前から考えていたらしい。
第2次世界大戦が勃発して8日目に生まれたので、当時の状況から考えると、
征伐の「征子」が似つかわしいご時勢であったろう。
事実、「勝蔵」「勝利」「勝子」「征子」という名前の同級生がいた。
名詞を交換したおりに、この文字が入った名前の人にたずねてみると、ほとんどの場合が昭和16年から19年頃に生まれている。
」という字は中国の古い文字で、「大漢語林」(鎌田正、米山寅太郎 共著)によると、[1]装う、[2]麗しい、[3]淑やかなどという意味がある。
父は生まれてきた長女の幸せを願って、征伐の征子ではなく麗しく淑やかな、女性としての魅力を備えた名前を考えてくれたのだろう。


香港がまだ英領だった頃、国境近くの上水まで列車の旅をしたことがあった。隣り合わせた中国人と筆談をしたら、よい名前だとたいそうほめられたことを思い出す。学者のような威厳があるその老人は、メモ用紙にGood、Wonderful, Beautiful と書き、さらに 真、善、美と漢字を添え、「こんないい名前をつけてくれた、親に感謝しなさいよ」と教えてくれた。
 せっかくの親心なのに、名前に込められたエレガントな婦人とは程遠い、自然や草花を愛する活発な女性に育ち、親を失望させたに違いない。


あれからというもの、漢字を使う街を旅行する時には、ポスターや看板に注意するようになった。香港ではバスの車窓から「麺」と「水」の看板を見つけたことがある。おそらく「美味しい麺」に「清潔な水」の意味ではないだろうか。


シンガポールの果物屋にも「」の字があった。たしか「星州楊」だったと思うが、こう書いてスターフルーツと読むのだそうだ。緑色の蝋細工のような果物を輪切りにすると、☆の形になる。シンガポールの星洲と果物の形をかけて星洲とし、美味なるヤマモモのような果物という意味のようだ。
北京の本屋では、「」の字がタイトルになっている美容食の本を見つけた。
現在中国では簡体字を使っているので,「」は写真のように変化(または進化?)している。この場合は「美しくなる」という意味のようだ。




「親の心子知らず」のたとえの通り、就職するまで私はこの名前が好きになれなかった。必ずといっていいほど聞き返されるし、漢字では新子、親子、規子、
硯子、硝子などに間違えられる。その度に何か悪いことをしたような気持ちで、
悲しくなってしまうのだった。
しかし、講談社に就職し、「若い女性」の編集部に配属されてからは、この名前のおかげでどれほど得をしたことだろう。取材で訪ねた初対面の人に、?と 思わせたらしめたもの。強い印象付けに役立つことを知った。
 外国人には、某有名メーカーの時計と同じスペルなので、Oh SEIKO!とすぐに覚えてもらえる。父はそこまで考えてはいなかったと思うが、国際社会では、発音のしやすい名前は大事な条件かもしれない 


嬉しいことがあった。詩人の立原えりかさんと京都へ取材にいったとき、
「素敵なお名前ね。Looking Blue と読めるじゃない?」といわれた。
本当にそうだ。青い色には、天上の青のように永遠や無垢、勇気、愛、栄光などの意味がある。いつも青い色を見ながら、志を高く掲げて生きていこう。
これこそ親が望んでいたことかもしれない。
 

 不思議なめぐりあわせも経験した。
ありそうでいて無いこの名前について、あるパーティーの席で、夫が作家の
阿川弘之先生からこんなお話をいただいたことがあった。
「今書いている本に、あなたの奥さんと同じ名前の女性が出てくるんですよ。『海軍大将井上成美』という題名でしてね、長女の名前がなのです」
そのときは「まぁ、大将のお嬢様と同じ名前とは・・・」と恐縮しながらも、
同じ名前を持つ人がいたことが嬉しく、年齢差のことまで考えが及ばないまま、いつかお会いできたらなどと思ったことを記憶している。


あるとき来客があった。仕事の打ち合わせが終わり、玄関まで見送ったときのことだ。一度ドアに手をかけたその方は決心したように振り向いて、こう言った。
「失礼ですが、僕の母の名前と同じでいらっしゃるんですね」
驚いた私は
「まぁ、本当に? めったにない名前ですが、私の知る限りでは、これで3人のさんが揃ったことになります。もうお一方は、海軍大将のお嬢様だそうですよ」と言った。すると間髪を入れず、
「それは僕の母です」
「・・・・・」
しばらくの沈黙の後、「どうぞ、もう一度おあがりになって、ゆっくりとお話を聞かせてください」
 

その方は、最後の海軍大将井上成美のお孫さんに当たる丸田研一氏だった。
彼の母が大将のひとり娘で、と同じ漢字でもシズコと読むという。大正8年に生まれ、御茶ノ水高女を卒業。20歳で海軍軍医大尉の丸田吉人氏と結婚。息子研一氏を残して惜しくも29歳で亡くなられた。和歌をたしなまれる知的な方で、写真を拝見するとほっそりとした佳人だった
頂いた彼の著書「わが祖父井上成美」の扉には、こう記されている。




謹呈 この物語に登場する母と
同じ字をお名前にもつ
様へ
丸田研一













私の父吉岡棟一が旅立って10年、母京子が逝ってから7年が過ぎた。
植物好きな両親のことだから、あの世でもきれいな花の咲く野原あたりで行き逢って、仲良くしていそうな気がする。
Looking blue と名前をつけてもらった私は、毎年のように青い花を育て、毎日のように青い空を見上げている。








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